2月25日「脳の限界、言葉の限界」

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脳の科学的な分析が進み、人間のすべての行動が脳の指令によるものと信じられています。
石田秀美著の「気のコスモロジー」では、その常識に疑問を投げかけ、東洋の思想にその答え
のヒントを見出そうとしているのですが、この本から、漢方との考え方の共通点や課題も見え
てきました。
著書では、脳にあたるであろう、ほんのわずかな神経節しかもたないミミズでさえ、非常に多
くの状況に臨機応変に対応できることから、明らかに脳以外のところを使って最適な行動をと
っているとしています。そして脳はある状況をつながった時間として捉えることが難しく、細
切れの一瞬一瞬でつじつまを合わせながら解釈してしまう帰来があるため、常に変化しつなが
っている世界を的確に掴むことに限界があり、脳を使うことは最適な行動をとることの邪魔を
している可能性があることを示唆しています。
自然は科学ですべて理論的に解明できるかのように思われていますが、脳が上述のように状況
を細切れの一瞬で捉えてしまうとすれば、脳の力で生み出された科学によって解釈された自然
も、脳の捉えた自然であり、自然の一面に過ぎないのではないか、と思うのです。
科学とは別の道のりを辿ってきた漢方では、気という言葉が登場しますが、それは生命は常に
動き、変化し続けているもの、という‘状態’を気という言葉を使って表現しようとしているから
です。ですから漢方はいわば脳によって身体を解釈するのではなく、過去の状態から現在ま
で、そして今も動き続けている生命として、すべてを取り込んでいくのです。しかし、科学の
中に埋もれた生活の中で、脳を使うことから離れることは可能なのか、そもそも身体について
考えるという時点で、脳を使ってしまうため、脳を使わないことは不可能ではないか、とも思
います。
何か技を身に付ける際、経験と勘が大事であることをよく聞きます。勘とは、一見すると、何
か頼りない、不安定なもののようですが、これによって機械よりも正確な製品を作り出してい
ることはよく聞く話です。脳に頼らず、かつ的確な行動をとる方法として、勘は素晴らしいも
のだと思います。経験がまだ少ない自分にとって、漢方の莫大な経験書籍は強い味方です。
しかし、経験書籍中のその言葉さえも正しく把握することに限界があることを、本から改めて
感じさせられます。といいますのは、言葉は脳を介して生まれるものであり、生きている状態
そのままを捉えることは脳では困難であるからです。そして著書では、言葉にできるのはこれ
までの体験と類似した感覚を、同じ言葉で表現することでしかない、とあります。
漢方で診断材料として最も重要なものの一つが問診です。患者さんに、体の状態を言葉を通し
て伝えてもらいます。しかし言葉には、状態そのものを伝える力として限界があります。共通
語であっても、一人一人でその言葉に対する感覚は違います。例えばだるい、という一言でも
自分のこれまでだるかった感覚と重ね合わせてしまうと患者さんのだるさと一致しない可能性
があります。そもそも一致させること自体不可能です。しかしここでふと、黄帝内経の脈診に
ついて書かれた内容を思い出しました。それは脈の状態を‘竹竿を撫でさすったように’とか‘鶏
が一歩一歩ゆっくりと地を踏むように’というようにかなり具体的な例えで表現しているもので
す。これまでは、なぜここまで具体的な表現を使うのかと思っていましたが、今は、誰もが生
の感覚で感じられるものでしか、正しく伝えることができないことを古代の人も十分認識して
おり、言葉の限界を感じながらもできるだけ正確に伝えたい、という強い意志を感じます。
患者さんがもつ感覚にいかにして近づけるか・・・。難しい課題です。