春分の日を雨で迎えました。祝日の私たちには少し残
念なお天気ですが、畑では沢山の植物たちが芽を出し
始め、喜んでいるようです。晴耕雨読ということで、
小林秀雄著の「考えるヒント」を本棚に見つけて読ん
でおりましたら、言葉という小題のなかに、本居宣長
が残した言葉の『姿ハ偽セガタク、意ハ似せ易し』
(姿とは言葉のこと)についての考察がありました。
一見すると逆(言葉は真似しすく意見は真似しにく
い)と思ってしまい分かりにくいのですが、納得でき
る一面もあるなあと思いました。例えば漢方では、あ
る一人に薬を提供する場合でも、提供する人によって
出す薬が異なることが多くありますが、どれが正解と
いうことはなく、同じ場所に行く時でも経路が人それ
ぞれ違うように、最終的な目的地が同じであれば、や
り方は提供者の経験、個性によって変わってきてもい
いと考えます。
また音楽でも、演奏する人が違えば同じ楽譜でも同じ
演奏になることはないのですが、それぞれの人が意識するのは作曲者の意志に沿った演奏であ
って、演奏の形はは違っても、意識には近いものがあります。では最終的な意思だけをはっきり示した方が分かりやすいのかもしれませんが、はっきり示せるものでないからこそ音楽も存
在するのかな、と思います。
最近知り合いから聞いた話ですが、大学の先生をしている人が、最近の生徒は人の話を一分以
上はまじめに聞いてくれないので、出来るだけ短く話をするようにしてるそうです。これに
は、ネットの普及が関係してきているのかもしれません。分からないことは、検索すれば単刀
直入に答えと思われるものが返ってくるネットでは、説明できない何かというものはあっては
いけないことになりますし、その何かを分かってもらうための説明の時間は許されないのかも
しれません。
同じ花を見ても、個々でその綺麗さを感じることができますが、説明はしにくいものですし、
言葉での表現の仕方は人によって異なると思います。ネットによって分からないことすべてを
解決させよう、一つの答えをだそうという習慣は、遠回りなまもの、説明できない何かを排除
していくことにならないか、人の感じるという力を奪うことにはならないのか、はっきり答え
がだせるものでないだけに心配です。

